ひな祭りの定番料理といえば、何を思い浮かべますか?
「ひなあられ」や「蛤のお吸い物」もありますが、今では「ちらし寿司」こそ、ひな祭りの食卓に欠かせない一品と感じる方が多いのではないでしょうか?
私も毎年、サーモンやいくら、玉子を彩りよく酢飯にのせた華やかな見た目のちらし寿司を作り、家族と楽しんでいます。でも、ふと考えてみると、なぜひな祭りにちらし寿司を食べるのか? その理由を知らないことに気がつきました。
調べてみると、意外にも「ひな祭りにちらし寿司を食べるようになった正確な記録」は残っていないことがわかりました。しかし、「ひな祭り」と「ちらし寿司」それぞれのルーツをたどると、驚くべきつながりが見えてきたのです。
実は、ちらし寿司はもともとひな祭りのために作られた料理ではなく、ある政治的な出来事をきっかけに誕生したものという説があります。その背景には、江戸時代の岡山藩が発令した「倹約令」と、それに対抗した庶民の知恵 が隠されていたのです。
食文化のルーツを知ることで、ひな祭りという行事がより奥深く感じられ、いつもとは違った視点で楽しめるかもしれません。
本記事では、ひな祭りとちらし寿司の関係を歴史的な視点から深掘りし、その意外なルーツを解説します。
この記事を読むと次のことがわかります!
✔ひな祭りの起源
✔ちらし寿司の起源
✔ひな祭りの食事の歴史
✔ちらし寿司がひな祭りの定番となった理由(考察)
✔地域によるちらし寿司の違い
ひな祭り発展の歴史|ちらし寿司とは異なるルーツ
「ひな祭り」と「ちらし寿司」は、もともと同じ文化から生まれたものではなく、それぞれ異なる時代に発展してきました。ちらし寿司の起源は江戸時代初期であるのに対し、ひな祭りの起源は平安時代にまでさかのぼると考えられています。
では、ひな祭りが始まった当時、人々はどのような食事をしていたのでしょうか?
ここでは、ひな祭りのルーツと、ちらし寿司が誕生する以前の食文化について解説します。
ひな祭りの起源は平安時代の「ひいなあそび」と「流し雛」

ひな祭りは正式には「上巳(じょうし)の節句」と呼ばれています。
江戸時代に幕府が正式に五節句の一つとして定めたことで、日本全国に広まりました。
しかし、その起源をたどると、今から1,200年以上前の平安時代にまでさかのぼります。
当時、貴族の子女たちの間では、「ひいなあそび」と呼ばれる小さな人形を使った遊びが流行していました。
これは、紙や土で作られた人形(ひとがた)を並べて宮中の暮らしをまねる遊びで、今で言う「ままごと」のようなものと考えて良いと思います。
清少納言(996-1025)の枕草子には以下のような歌があり、「ひいなあそび」が貴族の生活に定着していたことがわかります。
過ぎにしかた恋しきもの(なつかしいもの) 枯れたる葵 ひいなあそびのてうど
うつくしきもの(かわいらしいもの) ひいなの調度
「ひいなあそび」はやがて「上巳の祓い」と結びつき、ひな祭りの原型へと発展していきます。
「上巳の祓い」は、古代中国から伝わった厄払いの風習で、3月の最初の巳の日に水辺で身を清め、邪気を祓う行事として行われていました。
この風習が日本に伝わると、平安時代の宮中では、紙や藁で作った人形(ひとがた)に自らの災いを移し、川に流して厄を払う「流し雛」という形で実践されるように。これが後の「上巳の節句」の起源となります。
平安時代中期ごろ、「上巳の祓い」に行われていた「流し雛」の風習と、貴族の間で親しまれていた「ひいなあそび」が結びつき、「厄払い」とともに「子供の健やかな成長を願う行事」へと変化していきました。
【参考】
雛祭りの起源|酒田市立資料館
ひいなあそび|西尾市岩瀬文庫
有職故実で見る『源氏物語』 第十二帖 須磨|太陽WEB
江戸時代に広がる「飾る」ひな祭り

江戸時代初期(1629年)、京都御所で盛大なひな祭り(このときは「ひなあそび」と呼ばれていた)の儀式が行われました。これをきっかけに、ひな祭りの風習が京都から江戸へと伝わり、貴族や武家の間で重要な行事として定着していきます。
当時の江戸社会は身分制度が厳格に決められていましたが、ひな祭りは町人文化の中にも広がり、次第に庶民の間で「ひな祭り」と呼ばれ、楽しまれるようになりました。
江戸時代中期になると、ひな祭りは大奥にも伝わり、春日局の影響で3月3日の「上巳の節句(桃の節句)」が女性のための行事として定着します。
この頃から、厄除けの「流し雛」よりも、「雛人形を飾る」という風習が主流となり、江戸の町には「雛売り」や「雛市」が登場し、大流行しました。町人文化が発展するとともに、雛人形もますます豪華になり、絢爛な衣装をまとった人形が作られるようになりました。
江戸時代後期に入ると、現在のような「段飾り」の雛人形が確立され、ひな祭りは華やかな「子どもの成長を願う家族の行事」として広く定着します。
もともとは貴族の小さな人形遊びから始まった風習が、長い歴史の中で庶民の文化と融合し、家族の大切な行事へと変わっていったことがわかります。
ひな祭りの食事の歴史 |ちらし寿司が登場する前の祝い膳
ひな祭りといえば、今では「ちらし寿司」が定番の料理となっていますが、この文化が定着したのは比較的最近のことです。
では、ちらし寿司がひな祭りに食べられるようになる以前、人々はどのような料理でひな祭りを祝っていたのでしょうか?
ここでは、時代ごとにひな祭りの食事の変遷をたどりながら、その背景を解説していきます。
【平安時代】上巳の祓いの精進料理

平安時代、「上巳の祓い」では、陰陽師による厄払いの儀式が行われていました。
この時期の宮中では、季節の節目に節会(せちえ)と呼ばれる公式の宴が開かれ、「御節供(おせちく)」とよばれる特別な食事が振る舞われていました。これは現在のおせち料理の起源にあたるものですが、正月料理ではなく、季節の節目に食べる食事全般を指していました。
「上巳の祓い」でも御節供の料理が食べられていたと考えられています。
具体的には、
- 米飯(白米または雑穀米)
- 野菜の煮物(山菜や根菜類)
- 魚介類の干物(保存食として)
といったシンプルな料理が中心だったと考えられます。
御節供については下記の記事でも解説しています。

【室町時代】上巳の節句としての行事食

平安時代から続いていた「上巳の祓い」は、室町時代になると宮中や武家社会でより大規模な儀式として行われるようになりました。この頃、節句の概念が確立し、上巳の節句が「祝う」要素を持つ行事へと変化していきます。
室町時代のひな祭りには、食事に特定の意味が込められるようになり、
- なれ寿司(発酵させた魚と米を使った保存食)
- 鮎の塩焼き(清流の魚で邪気を払うとされた)
- 餅(長寿を願う食べ物として)
といった料理が食べられていたと考えられています。
【参考】
なれずし 三重県|農林水産省
【江戸時代】ひな祭りの祝い膳の確立

江戸時代に入ると、ひな祭りは「厄除けの儀式」から「女の子の成長を祝う行事」へと変化しました。
特に、幕府が「上巳の節句」を五節句の一つとして正式に定めたことで、庶民の間にもこの行事が広がっていきました。日本全国にこの風習が広まったことが大きな影響を与えています。
また、この時代にはひな人形を飾る風習が定着し、ひな祭りにふさわしい食事として次のような料理が広まりました。
- 菱餅(ひしもち):桃色・白・緑の三色餅で、厄除けや健康、子孫繁栄を願う。
- ひなあられ:菱餅を砕いて炒ったものが始まりで、地域によって甘いものや塩味のものがある。
- はまぐりのお吸い物:貝殻がぴったり合うことから、良縁や夫婦円満を象徴。
- 白酒(しろざけ):桃の花を浮かべた酒で、厄除けの意味を持つ(※現在は子ども向けに甘酒が用いられることが多い)。
この時代になると、ひな祭りは豪華な食事を楽しむ”「祝い膳」の文化”が確立し、家庭ごとに工夫を凝らした料理が作られるようになりました。
【参考】
お家で祝うひなまつり!|農林水産省
五節句と行事食の云われ|白山市
ちらし寿司の起源|岡山藩主・池田光政の「一汁一菜令」が生んだ?
現在、ひな祭りの食事に欠かせない「ちらし寿司」のルーツは、意外にも江戸時代の岡山藩である説が有力とされています。この寿司の原型が生まれた背景には、”岡山藩主・池田光政(いけだ みつまさ)の「一汁一菜令」”が深く関係していました。
「一汁一菜令」で領民の食生活を質素に
池田光政は、江戸時代前期(17世紀)の岡山藩を治めた藩主で、質素倹約を奨励し、領民の生活改善に努めたことで知られています。その一環として発布されたのが、「一汁一菜令」と呼ばれる食事の倹約令でした。
この倹約令の目的は、領民の生活を質素なものへと導き財政を立て直すこと。
具体的には、”日々の食事を「一汁一菜」に限る(=汁物一品とおかず一品のみ)“とされ、贅沢な食事を禁じる内容が盛り込まれていました。
しかし、庶民はただ制約に従うのではなく、「一品の中にできるだけ多くの食材を取り入れる工夫」を考え出しました。
庶民の知恵が生んだ「ばら寿司」

「一汁一菜令」をかいくぐるために、岡山の人々が考え出したのが「ばら寿司」です。
質素な食事とする命令に対抗するため、なんとご飯にさまざまな食材を混ぜ「一菜」としたのです。
この「ばら寿司」が「ちらし寿司」の起源となる料理です。
「ばら寿司」は次のような特徴をもつ料理でした。
- 魚や野菜、卵などの具材を酢飯に混ぜ込んだ寿司
- 見た目はシンプルながらも、実際には具だくさんで栄養価の高い料理
「一品料理」の範囲内で、できるだけ贅沢に食事を楽しむ工夫として生まれた「ばら寿司」。当時の岡山は、瀬戸内海の新鮮な魚介類や地元の野菜が豊富に手に入る地域でした。
「質素な見た目の中に、できるだけ多くの味を詰め込む」という領民のアイデアによって、制約の中でも食を楽しむ文化が生まれたとされています。
ただし、岡山藩の「ばら寿司」がちらし寿司の起源とする説には一次史料が見つかっておらず、岡山だけの発祥とは完全には言い切れない現状となっています。
【参考】
岡山ばらずし|岡山観光WEB
ちらし寿司がひな祭りの定番となったのは大正以降
江戸時代初期に岡山藩で生まれた「ばら寿司」が「ちらし寿司」となって全国に広まりひな祭りの料理として定着したのは大正以降とされています。
では、どのようにして「ばら寿司」から「ちらし寿司」と変化し、ひな祭りの象徴的な料理になったのでしょうか?
「ばら寿司」から「ちらし寿司」へ
江戸時代の岡山で生まれた「ばら寿司」は、酢飯に魚や野菜などの具材を混ぜ込んだ寿司でした。
この形式が江戸に伝わると、江戸前寿司の影響を受け、酢飯の上に具材を美しく盛りつける「ちらし寿司」へと変化していきました。
ただし、ばら寿司がどのように「ちらし寿司」という名称になったのか、また、具体的にどの地域で最初にこの呼び名が使われたのかは、明確な記録が残っていません。
一説には、関東では江戸前寿司の影響を受け、関西ではばら寿司がそのまま発展したとして、それぞれ異なるルートで「ちらし寿司」に発展していったともいわれています。
ちらし寿司が「ひな祭りの料理」になった理由
では、ちらし寿司がひな祭りの定番料理になったのはなぜでしょうか?
ちらし寿司がひな祭りの料理として広く知られるようになったのは、大正時代以降とされています。
その背景には、使われる食材の縁起の良さ、家族で作れる手軽さ、見た目の華やかさが関係していると考えられています。
縁起の良い食材
ちらし寿司には、一般的に以下のような食材が使われます。
- エビ(長寿を象徴)
- レンコン(将来の見通しが良くなる)
- 豆(健康でまめに働ける)
- 錦糸卵(黄金を連想させる縁起の良い食材)
このように、一つ一つの具材におめでたい意味が込められているため、ひな祭りの祝い膳にふさわしい料理といえます。
家族で作れる手軽さ
「ちらし寿司」は握り寿司のように職人技を必要としません。家庭で簡単に作れる点が、庶民の間で広がった理由の一つと考えられます。
ハレの日にふさわしい華やかな見た目
ちらし寿司のカラフルで華やかな見た目が、雛人形やその他の飾りつけとも調和し、お祝いの席にふさわしい料理として受け入れられたと考えられます。
このように、ちらし寿司の食材の縁起の良さとお手軽さ、華やかな見た目がひな祭りという華やかな一般家庭の行事に調和し、広く受け入れられたものと考えられます。
地域によるちらし寿司の違い
江戸時代に「ばら寿司」として生まれ、大正以降にひな祭りの定番料理として発展した「ちらし寿司」
現在では日本各地で親しまれている料理ですが、そのスタイルや具材は地域によってさまざまです。特に関東と関西では、ちらし寿司の特徴に顕著な違いが見られます。
関東地方のちらし寿司

関東では、酢飯の上に新鮮な刺身や魚介類を美しく並べた「江戸前ちらし」が一般的です。このスタイルは、江戸時代に握り寿司が普及した頃に生まれたとされています。
一人前ずつ器に盛り付けられ、見た目の華やかさが特徴です。
関西地方のちらし寿司

一方、関西では現在でも「ばら寿司」と呼ばれたり、「五目寿司」と呼ばれるスタイルが主流です。酢飯に細かく刻んだ具材を混ぜ込み、その上に錦糸卵や海苔を散らします。
使用する具材は、煮たれんこんやしいたけ、たけのこ、かんぴょうなどが一般的で、生の魚はあまり使われません。
岡山藩で生まれた「ばら寿司」をほとんどそのまま受け継いでいると考えられます。
その他の地域のちらし寿司

その他、京都北部の甘辛く煮付けたサバを細かくほぐして散らす「丹後ばら寿司」など日本各地には地域独自の特色のあるちらし寿司が存在します。
ちらし寿司はさまざまな食材を米の上にのせたり、一緒に混ぜることができるので、他にも地域ごとにさまざまなバリエーションがあると考えられます。
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まとめ
ひな祭りの定番料理として親しまれている「ちらし寿司」。
しかし、そのルーツをたどると、もともとはまったく異なる背景を持つ二つの文化から生まれたものでした。
ひな祭りは、平安時代の貴族の遊び「ひいなあそび」と、厄払いの儀式「上巳の祓い」が結びついたことが起源とされています。
その後、江戸時代に「ひな祭り」として庶民の間に広がり、「子どもの健やかな成長を願う華やかな家族の行事」として定着しました。
一方、ちらし寿司の起源は、江戸時代初期の岡山藩で発布された「一汁一菜令」にあります。
質素倹約を求められた庶民が考え出した「ばら寿司」は、見た目は一品料理ながら、具材をたっぷりと混ぜ込んだ工夫料理でした。
このばら寿司は、時代とともに地域ごとに発展し、全国各地で「ちらし寿司」として親しまれるようになったのです。
そして、大正時代以降、ちらし寿司はひな祭りの食卓に並ぶようになりました。
「ちらし寿司の華やかさが、ひな祭りのお祝いの雰囲気とよく合っていたからではないか」と推測されていますが、
明確な記録は残っておらず、どのようにしてこの食文化が定着したのかは、いまだに解明されていません。
このように、私たちが何気なく食べている料理も、長い歴史の中で人々の知恵や工夫を受け継ぎながら発展してきたものです。その背景を知ることで、ひな祭りという行事がより味わい深いものになるのではないでしょうか。
今年のひな祭りは、歴史に思いを馳せながら、お好みの具材を使った「ちらし寿司」を作ってみてはいかがでしょうか?

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